作品世界の森を抜け、気付きの旅へ

1998年青山スパイラルホール、「G9:New Direction」展に飾られていた一枚の絵、それはわたしにとって記憶に残る出会いとなった。正方形のキャンバスの暗い画面の中に、ぼんやりと浮かびあがる少女の頭部。背景と被写体の境界は曖昧なのに何かと目が合っている、というより何かに見られているような感覚がある。ひどく気になってギャラリーの人に声をかけ、これはどういった絵なのか、また作者はどういう人なのかと訊ねた。そのとき私が声をかけたのが現シュウゴアーツ代表佐谷周吾氏であり、その絵を描いたアーティストがイケムラレイコ氏であった。飾られていたすべての作品は購入可能だったが、貧乏学生から抜け出たばかりの私には勿論買うことなど出来ず、その後いただいた名刺を頼りに佐谷画廊へ伺い、小冊子「ブラック・ヌーン」を購入した。それは絵と詩が織り混ぜられたB6変形の蛇腹の本で、現代美術はひどく難解なものなのではないかと敬遠していたわたしに対して優しく手を振ってくれたように感じられた。

やがて自分自身がアートの仕事に関わっていくようになる中で、当時のことを覚えていてくださった佐谷氏を通じて、イケムラ氏本人にご挨拶させていただく幸運にも恵まれた。2006年当美術館で開催された「うみのこ」展ではカタログ撮影を、今回の「PIOON」展ではこのような寄稿の機会を得ることとなり、細く長く縁が続いているこの幸運に、好きなものを好きと言い続けることも時には必要だったのかと若き日を振り返った。

2014年4月20日、展覧会のオープニングイベントとして奈良美智氏とのトークが開催された。その際「改めて色々なところで共通することがあった」とお二人が仰っていたことが気にかかり、後日作品集などを調べてみた。イケムラ氏がスペインへ渡航したのが1973年、その後1980年に「KAMIKAZE」という作品を発表。モノトーンに近い色調のその絵は、敵艦へ突入しようとしているようにも見える。また同時期の他の絵画においても、描かれる人物に性別はなく、どちらかというと男性のようであり、神様のように見える絵も複数見受けられた。

一方、奈良氏も1988年ドイツへ渡航、その後1991年より2001年まで数回にわたり「KAMIMAZE」という言葉が含まれたタイトルの作品を発表していた。美しく火花が散っているようにも見えるモノクロームの作品から翼のない飛行機に乗った子供までと描かれた対象に幅はあるものの、イケムラ氏と同じように初期の作品において性差は今よりもずっと少なく、やはり神様のようなモチーフが多く見受けられた。お互いが同じ題名で作品を描いていたことを知っているのかどうかはわからない。だからこれはわたしの想像でしかないのだけれど、若きアーティストが単身海外へ渡り、異なる社会の中で自己を模索する過程の中で、まだ何者でもない自身は性差のない個として顕われ、暗い孤独な心の中へと侵略し続けているアイデンティティの亡霊として「神風」が顕れたのではなかったろうか。トークショー時の「お互いに共通するところ」とは、もしかしたらこのあたりのことを暗に差していたのかもしれない。

イケムラ氏の作品は、その後の変遷において性別を得、少女のように見えるその個体は、地平線/水平線に身体を預け始める。かと思えば、頭部が欠けていたり、自らの手を食べてしまうような彫塑が現れ始め、色彩、形、全てにおいて徐々に境界線を失っていく。キャンバスの目はどんどん粗くなり、麻にたっぷり染みこんだ絵の具を見るうちに、鑑賞者であるわたしの視点も曖昧模糊となる。前回、当美術館で開催された「うみのこ」展ではさわやかな色彩に包まれ、眠るように祈りを捧げていた彫塑(=肉体)は、今回、同じ位置に横たわりながらも、そのからだは蛆が湧いたように内部から溶け出し、骨が見え、野ざらしにでもなっているかのようだ。入り口にあった彫塑もまた、角度によって大きな横顔に見えたり、2体の折り重なった人に見えたり、これまで境界線から融合していると思われていた作品世界が、内部からも融合し始めているように感じられた。

アートに触れるということは、他者に触れることだと思う。まず作品の前に立ち、感覚的な衝撃を受ける。次に、これを作った人はいったいどういう人なのだろうとその人自身に興味が興る。その時、私たちは作者である、彼ら/彼女らの心にタッチし、また、自分の心にもタッチされたかのように感じる。それはピカソだろうがブッフェだろうがイケムラであろうが変わらない。タッチした/された瞬間に、それはジャンルや境界を飛び越えて自分の元へと降りてきて、わたしの人生の一部分となる。事実、1998年にイケムラ氏の作品の前に立ったわたしは、その瞬間気付きの洗礼を受けたのだと、今になって思う。

森本美絵 Mie Morimoto

1974年岡山県生まれ。東京造形大学卒業。ランドスケープを中心に作品制作に取り組むかたわら、幅広い分野で写真を発表している。近年での活動に、個展「pH」(MISAKO&ROSEN)、「family complex」(gallery TRAX)、グループ展「共鳴する美術」(倉敷市立美術館)、「夢の響宴 歴史を彩るメニュー 現代のアーティストたち」(SHISEIDO GALLERY)など。

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Special : 7

モデルKIKIとめぐる「イケムラレイコ PIOON」

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movie : Takehiro Goto
hair&make : Rumi Hirose
interview : Madoka Hattori

Special : 1

イケムラレイコによる詩の朗読

ヨーロッパでの活動のなか、イケムラレイコはスペイン語、ドイツ語、英語など複数の言語を習得していきます。言語とは国や文化と切り離しがたいものであると同時に、作家自身の人間性とも深く関連をもつ対象であり、作品とともに詩や俳句など言葉を用いた表現がこれまで試みられてきました。 ここでは、《うさぎ観音》展示会場の壁面に使用されています「うさぎ短歌」の朗読がお聞きいただけます。